ボサノバシンガー 田坂香良子 -KAYOKO TASAKA-

コラム

港と都の物語 第2話

かすかにどこかから懐かしいお囃子が聞こえてくる。 
「そうか、もう祇園祭かぁ」
京都の夏はこのお囃子の音で始まる。
あと半月で祇園祭。お囃子の練習にも力がはいるのだろう。
ひさしぶりに聞く、コンコンチキチン・・・・
真理子は怒涛のようなこの半年に思いをめぐらした。

一人娘の美樹が結婚したのは去年の一月。妊娠九か月目での結婚式だった。
自分達の若い頃にはあり得ない、順序が逆のこの結婚だったけど、幸せそうな二人を見て、やさしそうな息子と孫を一気に授かったのだと思えば、こんなにうれしいことはないと思った。
孫は二月末に難産の末生まれたが、生まれてからは元気にすくすく育ち、今年のお正月は初めて五人で迎える幸せなお正月になった。
お見合いで結婚した十歳年上の夫、一也は外資系企業のサラリーマン。定年後も友達の会社を手伝い、週末には趣味のヨットやゴルフに興じ、年中真っ黒に日焼けし、健康そのものの慶応ボーイを絵にかいたような人だった。
真理子はお節料理を囲みながら、よちよち歩きを始めた孫と娘夫婦、その様子を目を細めてみる夫を見て、幸せをかみしめた。

三月になり、暖冬のせいで、今年は桜が咲くのが早いといわれ、家族でお花見に行くのが楽しみと思っていたその矢先、一也が急にこの世を去った。
あまりにも突然で、一体何が起こったのか、すぐには事態がのみ込めず、ただただ茫然とし、へたへたと座り込んだのは、明け方の五時。夜、気分がすぐれないというので早めに寝室に行った一也。夜中に具合が悪くなり、たまたま泊まりに来ていた娘が背中をさすったり、介抱したのだが、まさかそんなに急激に容態がわるくなるとは思わず救急車を呼ぶことさえできない間に、あっという間に息を引き取ってしまった。
『急性心不全』
まさかあんなに健康そのものだった人がこんなことになるなんて。
しばらく何も考えられず、何も手につかない毎日だったが、四十九日が過ぎるころには少し落ち着きを取り戻し、遺品の整理をしようという気にもなった。

そんなある日、車好きだった一也の工具入れの中から、一也が見知らぬ女性と楽し気に映っている写真をみつけてしまった。一枚だけではなく、何枚も。真理子の知らないいろいろな場所で、たくさんの季節を一緒に過ごしたことがわかる写真の数々。
幸せだと思っていた四十年の結婚生活が一気に崩れ去った。
ずっと裏切られていたのかと思うと、怒りというより、夫の汚らしさに吐き気をもよおしてしまった。そしてその高ぶる感情をぶつける相手はもうこの世にいないという現実に、あらためて愕然としてしまった。相手の女性を探し出す気力もなく、夫に対する失望のみが残り、それからひと月ほどは失意の中で過ごした。

悪いことは続くもので、そんな中、実家の母から、父が入院したと連絡がきた。

高齢の母を一人で実家に置いておくのも心配だったし、自分自身の気持を整理するためにも、一度一也と暮らしたこの家をでたほうがいいと考えた真理子は、実家のある京都に帰ってきたのだった。

あっという間に季節は夏になっていた。

(2020.05)