港と都の物語 第3話
「中国語しか聴こえないな。噂には聞いていたが…」
京都駅に降り立った健次郎は、彼の知る頃の京都とすっかり変わってしまっていることに戸惑いながら、この前京都に来たのはいつだっただろう、と思い返していた。
若い頃は夜回り朝回りで駆け回っていたのに、編責の職に就いてからは、すっかり落ち着いてしまった。都内に住んでいる頃はそれなりに気も張っていたが、横浜に来てからは、のんびりと時間が流れていることに身を任せて暮らしているところもあった。
「京都より、横浜の方がよっぽど田舎だな」
駅前の喧騒から逃れるように、八条口から都ホテルまで歩いた。同窓会が行われるホテルに運よく予約が取れた。部屋に入ると、勢いよくベッドに仰向けに寝転がった。
「さて、これからどうするかな…」天井を見つめながら、会の始まる迄の時間をどう過ごすか考える。中国人に支配されたような観光地巡りは疲れるし、とりあえず大学を観ておこうと決めた。
地下鉄に乗って左京区にある京都大学に着いた。歴史的建造物は変わらずその威光を放ち、四十数年前の面持ちは変わらない。変わっていくのは俺たちだけか…さすがにいろいろな思い出が蘇り、懐かしい感傷に浸るのだった。そうだ、自分が住んでいた下宿はどうなっているだろう、見に行ってみよう、と大学から一乗寺まで歩いてみることにした。
四十年も経っているのだから、様子が変わっているのは当たり前で、既に健次郎が住んでいた下宿は無くなっていた。洒落たカフェとラーメン屋が軒を連ねていた。
少し歩くと、広大な敷地に建つ武田薬品の薬草研究所にぶつかった。
「あ〜、この先に曼殊院があるんだった」
健次郎が一番好きだった曼殊院門跡。門跡とは、皇室のみが住職を務められる寺である。
その所為なのかどうなのか、寺であるのにあるべきはずの本堂がない。そして何より素晴らしいのは庭園だ。この庭園の風景を見ずして京都は語れない、と健次郎は昔から思っていた。
幸運なことに、観光客もさほど多くなく、やはりここへ来てよかった、とほっとした。
枯山水の庭を眺められる緋毛氈に腰をかけた。はぁ〜、と思いきり息を吐く。
覚悟はしていたが、京都の夏はやはり暑い。ハンカチで額から噴き出す汗を拭く。
「失礼ですが、町田…町田先生ですか?」
健次郎はその声のする方に顔を向けた。声の主は見知らぬ女性だ。薄緑色の紗の着物に、からし色の帯を締めたその女性は、四十半ばくらいであろうか、細いうなじに少し汗ばんだ後れ毛が絡んだ様子が妙になまめしかった。はて、どこかで会っただろうか、瞬時に記憶をたどってみたが、健次郎には心当たりがない。
「申し訳ありません。どこかでお会いしたことがありますか?」
「いえいえ、テレビで度々お顔を拝見したことがあるので、もしかしたらと思って」
そうかなるほど、自分は知らなくとも相手は知っているのか、テレビに顔を晒すというのは因果なものだと思う健次郎であった。しかし、街中で声をかけられることはあっても、大概はシニア世代の男性ばかり、このような妙齢の女性から声を掛けられたことは経験のないことだった。
「テレビを観ていて下さって、有難うございます」
こんな時洒落たことのひとつも言えればよいのだろうけれど、健次郎にはそれくらいの返答しか
出来ないのである。
「あ〜やっぱり町田先生でしたわ。こんなところでお会いできて光栄です」
「その『先生』っていうのはやめて下さい。照れくさいですよ」
「い〜え、だって私みたいなおバカさんにも、とってもわかりやすく経済のこと説明してくださるので、いつも有難いな、って思ってるんです」
いつもならその場を離れたり、わざと本を読んだりして相手との接触を断つのが通常だが、『おバカさん』という言い方に素直な可愛らしさを感じた健次郎は、そのまま会話を続けるのであった。
「嬉しいですね。僕はいつも、経済は難しくない、みんなが主役の充分人間くさい話だ、ということを心がけて話すようにしているんです」
「そうですかぁ。先生のお話は本当にわかりやすいから助かります」
「だから、その『先生』というのは…」
「あぁそうやった、言われたとこやのに」
恥ずかしそうに笑って後ろを向いた時に観えた、帯に描かれた金魚の柄と美しい京都弁に、一瞬暑さを忘れそうになる涼やかな風が吹いたような気がした。
「先生は、いえ、町田さんは、観光ですか?」
急にまた標準語に戻ったことに我に返ったような健次郎。
「いや同窓会が今夜あるので、それで来ました。
あの、気をつかって標準語でお話してくださらなくても結構ですよ。地の言葉で」
「そしたらお言葉に甘えて」と笑いながら答えると、結婚してからずっと東京暮らしで、夫が急逝し、次いで実家の父親が入院して母親が独り暮らしになったことから、つい最近京都の実家に戻った話をするのであった。
そのようなわけで、京都弁を使うのは久しぶりとのこと。
内容が深刻だっただけに、健次郎は少々気まずく所在なさを覚える。
そんな時、枯山水の庭に三毛猫が横切った。どこから入ったのだろう、と大好きな曼殊院の庭に猫が侵入したことに不快感を覚えた健次郎だった。
そしてどう会話を繋げていけばよいのか迷っていたときに女が呟いた。
「猫はお好きですか?」
「いえ、実は苦手です。猫アレルギーですし」
「うちにも猫がいました。スコティッシュフォールドてゆうて、耳が垂れてて目ぇがまぁるくて、毛が長くてブルーやったんですけど、いいひんようになりました」
「亡くなったのですか?」
「いつの間にかいいひんようになって」
「それはお辛いですね」
「いぃえぇ、私も猫は苦手で。そやし私には全然なつきませんでした。亡くなった主人のそばからは離れへんかったけど」
その時、彼女の携帯が鳴った。「ちょっと失礼します」と言い電話に出る。
後ろ向きのうなじが陽に照らされて、健次郎の目はそこにまた止まった。
「母からでした。急用みたいやし、もう行かんと。先生にお会いできて、嬉しかったです」
そう言い残して彼女は去って行った。
健次郎は、彼女のいなくなった枯山水の庭の鶴島と亀島に目をやった。猫はいつの間にかいなくなっていた。不思議な時間だった。
名乗ることもなく、当然連絡先を交換するでもなく、ふいに話しかけてきて、自分の身の上を話し、
去って行った。美しいうなじと、帯に描かれた金魚の絵が、健次郎の脳裏に刻まれた。
「京都も悪くない」、そう思いながら曼殊院を訪れたことに改めて喜びを感じた。
その夜、都ホテルで同窓会が行われた。
随分と皆年老いたものだ、自分の父親と言っても通るな、というような者もいた。
「おぉ町田!いつもテレビで観てるぞ」
声をかけてきたのはラグビー部で一緒だった相馬一樹だった。商社を定年退職したあと、保険会社の顧問におさまっている。
「お前はいつまでも若いな。やっぱり若い嫁さんもらったからか。家具屋姫は元気か? 」
「家具屋姫はよせよ。あ〜、元気だよ」
元気がどうかは知らないが、一応生きてはいるだろう、相馬に言われるまで、貴子のことを思いだしたことなどこの数年全くないことに気付いた。
「今日は何してたんだよ」
「大学観に行って、その後曼殊院に行った」
「お前、昔から曼殊院好きだったもんな」
その曼殊院で出会った女のことは話さなかった。
酒の肴にするような女ではない、してはいけない女のような気がした。
(2020.05)