港と都の物語 第5話
ギラギラ輝く夏の太陽を見上げ、健次郎は早く横浜に帰りたいと思った。
その日は銀座の三井ガーデンホテルで、商工会議所から頼まれて講演をした帰りだった。
表通りのアスファルトの照り返しは、靴の裏が焦げるのではないかというくらいに熱く、裏通りに入ることにした。
裏通りは若干暑さも和らぎ、表通りで聴かれる騒がしい中国人観光客の声も耳に入っては来ない。
そういえば、京都駅前の騒々しさも銀座と同様であったことを思い出す。
日本は西も東もチャイナマネーで廻っているのか…と、経済学者の健次郎自身も、情けなく思うのだった。
すずらん通りに入ると、画廊や品の良い店構えのカフェなどが並び、落ち着いた街並みになる。
その中の一軒に、呉服屋『ゑり善』があった。老舗の呉服屋だ。健次郎の亡くなった母は、着物が好きで、当時は銀座で着物をあつらえる、ということが贅沢の象徴だったこともあり、息子の健次郎もその名前を憶えていた。
近年呉服屋はどんどん閉店していく中、まだ残っていたことに懐かしさと安堵の気持ちを感じた。店の奥を覗いてみると、衣紋掛けに飾られた着物が健次郎の目に飛び込んできた。
若草色の絽の訪問着、何とも涼し気で美しい…健次郎の頭の中に、曼殊院で出会った女の姿が蘇った。ちょうどこんな色の着物だった、金魚の柄の帯を締め、いかにも着物を着慣れている感じ。
もしかしたら祇園あたりの芸妓か、いや、結婚して東京に行ったと聞いていたから、そうではない、あの奥ゆかしさに花街の匂いはしないではないか、いずれにしても、ああいう女を京美人というのだろうと健次郎は思った。柔らかそうな後れ毛が絡んだ汗ばんだうなじを思い出すと、体の奥の方に熱く込み上げてくるものがあった。
もう二度と会うことはない、と思うと、せめて名刺くらい渡しておくのだったと後悔した。
横浜の家に戻り、窓の外に拡がる海を眺めながら、冷たいビールで喉を潤す。
「あ〜、生き返った」と誰もいない部屋の中で声をだしてみる。夕暮れ時の海風か心地よい。
妻貴子と別居暮らしをするようになり、自由気儘な暮らしを手に入れて満足していた健次郎だったが、京都から戻ってから、どうも何かがおかしい。あの女に出会ってからだ。自分としたことが、いったいどうしたのだろう…そう考えていたとき、携帯が鳴った。相馬一樹からだった。
「おぉ町田。京都では楽しかったな。久しぶりに会えて嬉しかったよ。
これからも時々会って飲もうよ。ところで、ひとつ頼みごとがあるんだけど」
相馬の用件は、彼が顧問を務める保険会社が催行する講演会の演者が急用でキャンセルになり、
ピンチヒッターとして町田に頼んで来たのだ。
「町田大先生に代打をお願いするのは非常に心苦しいのだが、ここは旧友のよしみで引き受けてくれないかな。謝礼ははずむから」
「金の問題じゃなくて。で、日にちと場所を教えてくれ」
「七月十七日、京都」
『京都』と聴いて、健次郎の心とからだがうずいた。とっさにスケジュール帳を開いた。
「いいよ、相馬の頼みだ。行くよ」
「それでこそ友だ!有難う、感謝する。祇園祭で混んでると思うんだが、前乗りで十六日の宿と往復の新幹線は抑えてあるから。詳しいことはメールで。じゃあな」
相馬との通話が終わってから、少々自責の念にかられもした。なぜ、安請け合いしてしまったのだろう。旧友の頼みだからか、いいや、京都と聴いたからだ。
会えるはずのないあの女に、それでももう一度逢いたくて、健次郎は引き受けたのだ。
心はすでに、京都に飛んでいた。
(2020.05)