ボサノバシンガー 田坂香良子 -KAYOKO TASAKA-

コラム

港と都の物語 第7話

 運命と言う言葉がこの世にあるのなら、これを運命と呼ばずして何と呼ぼう。この時期に京都に行くことになったこと、京都が一年中で一番賑わう時期に、そしてその場所に自分を連れてきた運命のいたずらは、更に物好きな神の手により、その女の目の前に健次郎を立たせていた。
 「逢えた、本当に逢えたんだ…」、夕暮れの祇園に蜻蛉柄の浴衣を着て粽を売っているその女に、健次郎は何のためらいもなく、というより、抑え込んでいた感情が突然噴き出すように、その歩みを突き進ませて行った。
 「こんばんは。まさかこんなところでまたおめにかかれるとは」
健次郎に突然声をかけられ、その存在が、先日曼殊院で会った健次郎とは即座に理解できない女は、
「あ、先生…」と震えるような声で呟いた。その瞳の中に、一瞬潤んだような輝きを健次郎は見逃さなかった。

 翌日の講演を控え、前乗りで京都に入った。祇園祭で混雑することはわかっていたが、普段なら十分で行けるところの八坂まで、タクシーで三十分以上かかってしまった。
相馬の取ってくれたホテル『ラグジュアリーホテル・ソワカ』は、町屋を改築した風情のある、ホテル、というより旅館という感じだった。想像していた名前とは違い、打ち水のされた石畳を通り、部屋に案内された健次郎は、豪奢と瀟洒の中間に位置するような静寂に包まれた広い部屋に、それだけでも京都に来た甲斐があると思った。横浜の家は、景色は素晴らしいが部屋は簡素だ。
たまにこんな所に泊まるのも命の洗濯にもなる。「相馬のやつ、無理したな」、と心の中で思う。

 京都大学に通っていた頃の健次郎にとって、祇園祭はあまり縁のあるものではなかった。
大学が夏休みに入った時期のこともあるが、横浜出身の彼にとっては、少々敷居の高い行事であり、学業とラグビー、家庭教師のバイトに明け暮れた学生生活とは無縁の世界でもあった。
あれから四十数年経って、そろそろ祇園祭というものを楽しんでみるか、と心に余裕が出来たことを今頃になってやっと感じる健次郎であった。
 夕食まではまだ時間がある。宵山でにぎわう四条烏丸界隈まで足を延ばしてみようか。健次郎は宿を出た。お囃子の音が聞こえてくる。こっちへおいで、と言わんばかりに健次郎の目と耳をかどわかそうとする。かどわかされてもいい、ならば、この俺をあの女のところへ連れて行ってくれ…、お囃子の音は健次郎の心を脱魂と恍惚の領域へといざなうのであった。

 真理子に会ったとき、自分でも信じられないほど饒舌に挨拶をする健次郎、まるで用意してあった台詞を言うが如く。人間はともすれば、冷静と情熱の狭間に置かれたとき、意外と陳腐な台詞を吐いてしまうのかもしれない。健次郎も例外ではなかった。
初めて名乗られて知った『福島真理子』という名前、名前を知った途端に、距離が一気に縮まったような感覚に襲われた。
隣に、加奈子という女が一緒にいたのが、幸いだったのかもしれない。高校の同級生だという加奈子が、矢継ぎ早に話しかけてくるので、彼女が緩衝剤になって、真理子との再会を自然に演出できるような気がした。しかし、加奈子は派手で人目を引く女ではあったが、年齢的には五十歳後半のように見えた。ということは、真理子もそれくらいなのか、曼殊院で昼の光に照らされたその横顔は、四十半ば程にしか観えなかったのだが、と健次郎は短時間に推しはかってみる。

 やがて、真理子が粽を売っていたのは、真理子が住んでいるマンションの前だということがわかった。お喋りな加奈子のお蔭で、そのマンションは真理子の実家の呉服屋の跡地に建てられたものだということもわかった。やはりそうであったか、呉服屋の娘だったのか、どうりであのように自然に和服を着こなせているか謎が解けた。元芸妓かもしれない、と思ったのも無理はない、と健次郎は安堵した。安堵の気持ちは、それだけではない、真理子の住まいがわかったからかもしれない、おいおい、それではストーカーと同じではないか、と心の中で苦笑する。

 粽とは、関東でいう『ちまき』とは違う。あんこの入った笹で巻いた餅ではない。祇園祭の粽(ちまき)とは食べ物ではなく、笹の葉で作られた厄病、災難除けのお守りなのだ。毎年祇園祭の時だけ販売され、山鉾やお会所や八坂神社で販売される。京都の人々はこれを買い求め、一年間玄関先に飾るという。しめ飾りさえ飾ったことのない健次郎は、横浜のマンションの玄関に飾ってみようかと、真理子から粽を求めた。恥ずかしそうに、でも嬉しそうに、真理子は健次郎に粽を手渡した。

 その勢いで、御旅所への誘いを受けることになった。普段は言ったこともない歯がゆいリップサービスを込めて、いや、自然とこぼれてしまったのかもしれない、健次郎はその夜の同行を喜んで受けることにした。
 約束の時間までまだ間があったので、一旦宿に戻り、予約してあった夕食をとることにした。
ダイニングは、十メートル以上はあるかと思われる一枚板のカウンターが、美しい漆塗りの壁を背にして配置してあり、一人旅の客への配慮が施されてあった。呈される料理の数々は見た目にも舌にも素晴らしく、聴けばミシュランンの星を獲得したとのこと、なるほどと唸らされるものばかりだった。伏見や灘の希少な酒にも出会い、ほろ酔いの夜、隣に真理子がいてくれたら、もっと素晴らしい夕餉になるだろう、と健次郎は目を瞑り、蜻蛉模様の浴衣姿の真理子を思い浮かべた。

 夕食を終え着替えて、約束の十時に真理子のマンションに向かった。真理子は蜻蛉柄の浴衣から着替えており、今度はモダンな格子柄の浴衣に変わっていた。藍色と白とグレーが不規則に並ぶシックな浴衣に、先ほどより濃い目にひいたであろう鮮やかな朱の口紅の色が、祇園祭りの夜に映えるばかりだ。下駄を履いた素足には、口紅より濃い赤のペディキュアが施されており、橙色の鼻緒からすっと伸びた白い指が、健次郎には眩しかった。
幼馴染だという浩平という男率いるお囃子どころの後につき、真理子、加奈子、そして健次郎と、御旅所まで練り歩いた。京都人になった錯覚を覚えた。祇園祭も悪くはないな、真理子が一緒なら、
そう思いながら終には真理子の住まいに着いてしまった。三三七拍子でお開きとなり、気がつけば、真理子と二人きりになっていた。迷うことなく、健次郎は真理子に名刺を手渡した。
「なにかあったら連絡してください」
「わ〜、うれしい。ありがとうございます」
「今日は楽しかったです」
「私もです」
「まさか、また逢えるなんて思ってもみなかったので」
「私もびっくりしました」
「あの日から、ずっとあなたのことを考えていました」
「…」
真理子は黙ったままだ。その沈黙が健次郎にはとても長く感じられた。お願いだ、何か言ってくれ、何故「私もです」と言ってくれないのだ、と頭の中で真理子への想いが交錯する次の瞬間、思わず健次郎は真理子を強く抱き寄せ、真理子の唇に自分の唇を重ねた。
「あっ」と言って自分の胸の中に閉じ込められた真理子だったが、やがて健次郎は強い力で押し返されてしまった。
「ほな、また」
真理子は健次郎から逃げるようにマンションのエントランスに吸い込まれるように去って行った。

 横浜に戻った健次郎は、真理子から求めた粽を玄関に飾った。
携帯が鳴る度、そこに見知らぬ番号を確認しようとするのだったが、残念ながら真理子からの着信も、もちろんメールもなかった。いきなり抱き寄せ唇を求めたことに腹を立てたのか、しかし、御旅所へ誘ったことも、最中の楽しそうな笑顔も、それは間違いなく真理子なのだ。
健次郎は自分の唇を指でなぞりながら、あの夜の真理子の唇の感触を思い出していた。柔らかい甘い感触の唇だった。薔薇の花びらを口にしたことはないが、きっとあの唇を花にたとえるなら、それ以外には思いつかない、と何度も自分の唇を触り溜息をつくのだった。
嫌われてしまったのだろうか、強引だったのだろうか、こんな思いをこの年齢でするとは思わなかった、と戸惑うばかりであった。

 携帯が鳴った。ご多分にもれず、反射的に表示番号を見る。
残念ながら、相馬一樹だった。
「いやぁ町田、京都では有難う!出張だったんで礼が遅くなってすまん。評判良かったぞ。お前の解説はわかりやすい、って。演者交替も怪我の功名だったよ」
「それはよかった」
「ところで今週の週刊文潮見たぞ」
「何か書いてあったっけ」
「なんだ、お前んとこ夫婦は会話がないのかい。家具屋姫が『お部屋自慢』のコーナーに大々的に載ってたぞ。一面カラーで、相変わらず嫁さんは美人だな。羨ましいぞ、こんちきしょぉ! 」
「あぁ、そういえばそんなこと言ってたな。忘れてた」
 わざわざ友人に別居していることを説明するのも面倒くさく、とりあえずそう答えた。
「そういや、お前猫アレルギーだったよな。治ったんだ。良かったな。近いうちに飯でも食おう。また連絡するな」

 貴子か…。この前も同窓会で相馬から貴子の名を久しぶりに聴かされたものだった。今回は、健次郎の猫アレルギーが治ったと言われた。そんなことが貴子の記事にでも書いてあるのか。
早速健次郎はマンションの一階にあるコンビニに出かけ、雑誌コーナーに置いてある週刊文潮を手に取った。週刊文潮の巻頭カラーページに『お部屋自慢』というコーナーがある。著名人のお気に入りの部屋を毎号載せているのだ。
 相変わらず美しい堂々とした貴子が、見覚えのあるセンスの良い家具に囲まれて微笑んでいた。
膝の上には青い毛の猫。こちらをいぶかし気に見つめる丸い瞳の猫。そうだった、あの猫と自分を比べられ、猫を取った貴子と別居することになったのだ。『私の恋人、スコティッシュフォールドのカズくんです』、貴子の談話を読み、健次郎の脳裏にある台詞が蘇り、何度もこだました。 

『スコティッシュフォールドてゆうて、耳が垂れてて目ぇがまぁるくて、
毛が長くてブルーやったんですけど、いいひんようになりました』

(2020.05)