港と都の物語 第8話
一週間ぶりに加奈子からメールが来た。
「お茶でもせえへん?」
「ええよー。イノダでええ?」
京都の友達はみんなメールも京都弁。東京で生活していて、そういうメールを受け取るととても不思議な感じがしたが、こうして帰ってくるとごくごく自然にこちらもすっかり京都弁で返信している自分に気付く。
高校時代から、なにかあるといつも行ってた大丸の地下にあるイノダコーヒーは、懐かしくて落ち着く場所。昔に戻ったようで、おしゃべりするには絶好の場所だ。
宵山でのあの夜の出来事は、加奈子と言えども話をしていなかった。いや、加奈子だから、言えなかった。京都は他人の目がうるさい街でもある。
突然抱き寄せられて、息が苦しくなるほどきつく抱きしめられて、唇を重ねてきたあの夜のこと、
思わず健次郎を突き放して逃げてしまったけれど、思い出すたび胸が熱くなる。
一瞬、そう、一瞬だけ、健次郎を受け入れようとした真理子だったのに、夫に裏切られた記憶が蘇り、このままでは今の自分はあの夫と同じになってしまう…その思いが反射的に健次郎を拒絶してしまった。
粽売りで鉾前に立つ真理子に駆け寄って来た健次郎、その健次郎の姿を見つけた時の喜び、一緒に御旅所まで練り歩いて子供のようにはしゃいだ二人、真理子はその全てを忘れなければいけないのだと思った。両手で胸を抱きかかえ、目を瞑ると、手の甲に一しずく涙がこぼれ落ちた。
先に来ていた加奈子は、真理子の顔を見るなり、
「これ見た?」
と週刊誌を差し出した。
「週刊文潮?これがどうしたん?」
加奈子はいたずらっ子のように目を輝かせてページをめくり、真理子の前に差し出した。
そこには、猫を抱いた美しい女性が写っていた。
「これがどうかした?」
「よう見てみて。大谷家具店社長『大谷貴子』って」
「あ…。これはもしかして?」
「そう、真理ちゃんが教えてくれたやん。あの町田さんの奥さんのこと。ほらここ、夫は経済評論家の町田健次郎氏、って書いてある」
宵山の翌日、母とのんびり巡行の様子をテレビで見ていたら、加奈子から電話があった。話題はもちろん健次郎のことになり、真理子と健次郎のなれそめを根ほり葉ほり聞いてきた。根掘り葉掘り聞かれても、たった一度会っただけ、それも偶然曼殊院で出会っただけで、ほとんど何もしらないけれど、元新聞記者で今はテレビのコメンテーターでもあり、結婚していて、夫人はあの有名な家具屋の社長のようだと、ネットで仕入れた情報だけを伝えた。
加奈子はそれでも何か真理子と健次郎の間に特別な関係があるのでは、と疑っていたようだが、「私、あの人のこと好きになったかも」といきなり言い出した。
全てにおいて奔放な加奈子は、学生時代からいつもたくさんのボーイフレンドに囲まれていて、卒業してすぐにその中の一人と結婚して主婦に収まったのがかえって不思議なくらいだったが、還暦をすぎ、独り身になって、また昔に戻ったかのようだった。
そんな加奈子に、昨晩のあの一瞬の出来事は、言えるはずもなかった。
大好物のレモンアイスを食べながら、加奈子は週刊誌に写っている、美しい健次郎の妻を見て、「闘志がわいてきたわ〜」とキラキラした目で言った。
「闘志って…。もう会うことない人かもしれへんのに。奥さんから奪い取るつもり?」
「フフフ。どうしようかな…。苗字も違うし、意外と仮面夫婦かもよ」
とまたいたずらそうに眼を輝かせながら笑った。
「ちょっと貸して」
真理子は加奈子から週刊誌を奪い取り、『大谷貴子』を食い入るように見つめた。
真理子は改めてその女性に抱きかかえられている猫に目を向けた。
スコティッシュフォールド。家にいた猫と一緒。しかも毛の色も同じブルー。
あのまぁるい目も、垂れた耳も、どこをとってもそっくり。
まさかいなくなった真理子の家のあの猫が、貴子の所へ迷い込んだのか、いや、そんな偶然があるはずがない。それに、「あの人」は確か猫アレルギーと言っていたはずだ。
夫の一也の工具入れから沢山出てきた見知らぬ女性の写真…。真理子の知らないところで多くの日々を過ごしたであろう女性…。夫とその女性への憎しみと共に全て破棄してしまった写真。
その写真の女性の顔を思い出してみようとする、もつれた糸をほどくように。
今目の前にある健次郎の妻の顔に似ていたような気もする、ゆっくりと、昔の記憶が、ひとつひとつ蘇ってくるような感覚に襲われる。そんな妄想を、真理子は無理にでも否定しようとした。
しかし、『私の恋人、スコティッシュフォールドの “カズくん”です』、と書かれている貴子の言葉が、真理子の疑念を払拭させてはくれないのだ。知らず知らずのうちに、会ったこともない貴子への嫉妬心が、真理子の体内でめらめらと炎のように燃え拡がっていくのだった。
「どうしたん、そんな真剣な顔して」
加奈子の声にはっと我にかえった真理子は、急に東京の自宅のことが気になり始めた。季節外れの風邪をこじらせて肺炎になった父の容態も回復し、もうすぐ退院することが決まったことだし、父が退院して落ち着いたら東京に戻ろうと思った。
ひとしきり威勢のいい加奈子の話をきいたあと、会計をしようと財布を開けた真理子は、そこに健次郎の名刺があるのを確かめた。
(2020.05)