港と都の物語 第9話
「ほな、また」というのは、京都弁では正確にはどういう意味だろう。
関東なら「じゃあ、また」だが、京都ではやはり「さようなら」なのだろうか。
健次郎は、真理子が最後に告げた言葉の意味を良いように、時には悪いようにとりながら、一向に鳴らない携帯をうらめしく見つめるのだった。あれからひと月近くが経とうとしていた。
「いい歳をした老いぼれが、みっともないぞ」そんな声が心の中でした。
京都でのことは忘れよう、それこそひと夏の思い出だ、と普段の生活に戻る健次郎。
横浜の港は、晴れても曇っても雨が降っても、それぞれの風景でいつも健次郎を迎えてくれる。
窓の外に拡がる海を眺めながら、今自分に与えられた仕事を淡々とこなすことだけを考えた。
携帯が鳴った。「明日の打ち合わせ確認だな」そう思いながら携帯を取る。
見知らぬ番号が表示されていた。
「はい」
少しの間沈黙があり、絞り出すような小さな声が響いてきた。
「もしもし…私、福島です」
「あっ、真理子さん、真理子さんですね」
健次郎の胸の鼓動が音を立てて鳴った。
「すみません、突然お電話して。今よろしいですか?」
「えぇ、どうぞ、かまいませんよ」
「京都ではありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。どうしていましたか。僕はてっきり嫌われてしまったかと」
「いえ、そんなことは…。実は今東京に来ています」
だからなのか、京都弁ではなく標準語で話しているのか、電話を通して聴く真理子の声が、京都で会ったあの真理子とは別人のように聴こえた。
「東京へはどうして」
「父の容態が落ち着いたので、東京の家の整理に来ました」
「そうでしたか」
健次郎は、諦めていた真理子との縁が途切れていなかったことにほっとした。
そしてやはり自分は真理子に惹かれていることを改めて確認するのだった。
「あの、ご迷惑でなければ、お会いしてお話できませんか?」
せっかく連絡をしてきてくれた真理子の行動を無駄にしたくない、断られることも覚悟の上で、
健次郎は真理子を誘った。
「はい」
意外にも真理子は素直に応じた。
「町田さんは今どちらですか?」
「横浜です」
「名刺に書いてある横浜の事務所ですか?」
「あぁ、事務所兼自宅ですよ」
真理子は、瞬時に週刊誌で見た貴子の住む豪華な部屋を思い出した。
確か、都内と書いてあったはずだ。
「ご自宅は都内ではないのですか」
余計なことを言ってしまったと真理子は後悔した。
「都内にも家はありますが、僕はひとりで横浜に住んでいます」
健次郎の『ひとりで』という言葉に、真理子の頬が紅潮した。加奈子の「意外と仮面夫婦かもよ」と言った言葉が頭の中で廻っている。
「あの…でしたら横浜にまいります。都内には娘も住んでますし」
人目を気にしている、ということは、既に不毛の愛に一歩足を踏み入れてしまったような気がする真理子であった。
「急ですが、今日はいかがでしょう。一日仕事が無くて」
「はい、大丈夫です」
「じゃあちょっと早めの夕食でもご一緒に。ホテルニューグランドはわかりますか?」
「わかる、と思います」
「では、ロビーで五時にお待ちしています」
「はい」
真理子に会える…声を聴いただけで愛しさが募った。健次郎の心が躍った。
「町田さん」
背後から声を掛けられて振り向き、健次郎は驚いた。一瞬、その声の主が真理子だとは気付かなかった。まっ白なワンピースに、濃紺のパンプスを履いている。肩まで下ろしたロングヘアーは毛先が自然にカールされていて何とも軽やかである。大ぶりのゴールドのピアスが髪の毛の間から透けて見える。すっと伸びた手足がスタイルの良さを強調していた。
「真理子さん、てっきりお着物だとばかり」
「着物は京都でしか着ません」
「お着物も素敵ですが、洋服姿もいいですね」
「嫌だわ…町田さん、お上手」
恥ずかしそうにうつむく真理子が可愛くて、抱きしめたくなる衝動にまた駆られる。
そんな自分の気持ちを制し、食事へと誘うことにした。
「ちょっと早いですが、食事しながらお話しましょう」
「はい。そう思って、お昼抜いてきました」
こういうところが可愛い女なのだ、と思った。
「二階にメインダイニングのフレンチがあるのですが、そこでいいですか」
「あのぉ、この前テレビで観たんですけど、ドリアとナポリタンとプリンアラモード発祥のホテルなんですよね、こちら。私、それをいただきたいです」
健次郎に余計な負担をかけたくないという心遣いなのか、真理子のしぐさ、言葉のひとつひとつに、
そして意外にも和服と同じくらい素敵な洋服姿に、更に愛しさが深まっていくのだった。
一階のグリルでホテル発祥の三つの名物を頼み、お互いシェアしながら食べた。
美味しい美味しい、と目を細めながら楽しそうに食べる真理子。
その姿を見ていると、京都でのことを謝るきっかけがなかなか見つからない。
真理子もまた、目の前にいる健次郎を見て、東京の家の整理は口実で、やはり自分は彼に会いに来たかったのだと実感していた。他愛のない世間話をしたりして、食事は終わった。
健次郎は同じフロアにあるバーに誘った。バーならゆっくり話も出来るだろう。
「あ、ここがあの有名なシーガーディアンですね!」
「ご存じでしたか」
「ほら、サザンの唄に出てくる…
♪マリンルージュで愛されて
大黒埠頭で虹を見て
シーガーディアンで酔わされて まだ離れたくなぁい」
真理子はそこまで唄って、「あ、ごめんなさい」と言った。
無邪気に唄いだしたものの、歌詞が今自分の置かれている状況に重なっているようで、健次郎に軽蔑されたのではないかと思ってしまったのだ。
「謝ることないですよ。唄もお上手ですね」
健次郎は真理子の背に優しく手を置いて、バーのソファ席に誘った。真理子は自分の背にふと添えられた彼の手のあたたかさに、ずっと長いこと忘れていた感情が溢れでてくるのを感じた。
健次郎はブランデーを、真理子はカクテルを頼んだ。横浜の夕陽をイメージして作られた名物のカクテルを、「綺麗!」「美味しい!」と言って飲む真里子の笑顔と、グラスを手にする細く白い指がバーのほの暗い照明の中で眩しく光る。
「真理子さん、京都では失礼しました。突然あんなことしてしまって。ちゃんと謝りたかったんです。だから今日連絡くださって、本当によかった」
「いえ、私の方こそ、ごめんなさい。御旅所へお誘いしたのはこちらなのに」
「許していただけますか。もう僕はてっきり嫌われたと」
「嫌ってなんかいません!」
真理子はそう強く言って、カクテルを一気に飲み干した。
「お替りいただけますか」
健次郎は、自分が知るところの真理子にしては積極的な要望だと思ったが、酒の力を借りなければ話すことが出来ないのだろう、自分も同じだから、とバーテンダーにお替りを注文をした。
酔いが廻るにつけ、次第に饒舌になっていく真理子。
そこから、夫の死後に不倫を知り、夫との暮らしに区切りを付ける為にも京都に戻り、そこで健次郎に出会ってしまったこと、祇園祭での偶然の出会い、健次郎への想いが募っていたところに、突然のあの夜の出来事…夫の裏切りが蘇り、反射的に健次郎を拒絶してしまったことを切々と話すのだった。
「辛いことを思い出させてしまったんだね。本当に悪いことをした」
「いいえ、悪いことだったら、今ここにこうして私は来ていません」
そこへ、バーテンダーが閉店時間が近づいたことを知らせに来た。
「真理子さん、場所を変えましょう」
ホテルを出た二人は、目の前の山下公園へ。夏とは言え、夜の海風は涼しい。
ベンチに座り、港を見つめる。
「わぁ、綺麗。これが横浜港の有名な夜景なのね」
酔いがまわったのか、いつの間にか敬語でなくなっている真理子だった。
「僕は、この夜景を毎晩独り占めにしているんだ。贅沢でしょう」
「町田さんの事務所、いえ、ご自宅はこのお近く?」
「すぐそこだよ。ほら、マリンタワーが見えるでしょ。あの隣のマンション」
後ろを振り返って指さす方向に、真理子は目を向けた。
「こんな素敵なところに、本当におひとりで住んでいるの?」
「そうだよ」
「奥様は?」
「妻とはもう十年くらい前から別居してる」
健次郎のその言葉に、一気に真理子の話が堰を切った。
健次郎の妻を週刊誌で見たこと、貴子が猫を抱いていたこと、その猫が自分の家で飼っていた猫にそっくりだったこと、そして、夫の不倫相手が貴子に似ていたような気がすること、それを確かめたくて思い切って上京し、連絡してきたことを。
「町田さん、猫アレルギーじゃなかったの?」
真理子のその言葉を受けて、健次郎は笑いながら言った。
「ある日突然猫がいて、猫と俺とどっちを取る、と聴いたら、猫だと言われて。それで別居だよ」
「それくらい、奥様にとっては大切な猫だったのね」
「だとして、あの猫がご主人の可愛がっていた猫だったとして、僕は妻に確認する気持ちも微塵もないよ。どこから来た猫なんだ、誰からもらった猫なんだ、なんて。もう僕にはどうでもいい。
それから、偶然だとして、妻がご主人と不倫していたとしても、同じく正す気もない。むしろ、そんな話を聴いたら、あなたとの出会いは更に運命だと確信したよ」
健次郎の熱い思いが込められた言葉を耳にし、真理子は押し黙るばかりだ。
「確認してどうなるの?ご主人の裏切りがそんなに辛いなら、今度はあなたがご主人を裏切ればいい。それでおあいこだ」
ベンチから立ち上がり、真理子の手を勢いよく取り、健次郎は歩き出した。
健次郎の部屋で今度こそきつく抱きしめ合う二人だった。今度は真理子も健次郎の唇を抗うことなく受けた。健次郎の指が、真理子のワンピースのファスナーをそっとおろす。
ベッドに倒れこむ二人には、もう何の迷いもなくなっていた。
「真理子、愛してるよ」
「健次郎さん、私も」
甘美なひとときが流れ、時には二人は獣のようにもなり、互いをむさぼりあうように求め合い、
二人の姿が港の見える夜の窓に反射していた。
(2020.05)