ボサノバシンガー 田坂香良子 -KAYOKO TASAKA-

コラム

港と都の物語 第10話

暗闇の中、ふと目が覚めた。真理子は、窓越しの夜景とかたわらで気持ちよさそうに寝息を立てている健次郎の端正な横顔に気付き、「あ…」と小さな声をあげてしまった。
カーテンも閉めずに時を過ごしてしまったことが恥ずかしく、思わずシーツを口元まで手繰り寄せた。
でもこの安堵感はなんだろう。前にこんな気持ちを味わったのはいつのことだっただろう、と記憶をたどろうとしたが、思い出すこともできなかった。
ただ、この安堵感とともに、まだ見ぬ健次郎の妻と、親友の加奈子に対しての後ろめたさも感じた。

曼殊院で出会ったあの瞬間から、こうなることを心の底で願いながらも、健次郎が既婚と知り、つい最近傷ついた自分と同じように誰かを傷つけるのは嫌だからと、溢れる想いをこらえていた。それなのに、加奈子のあのキラキラした目に火をつけられてしまったのだった。

「加奈子にはとられたくない…」

一番の親友でもある加奈子は学生時代から一番のライバルでもあったのだ。加奈子はきっとそんな風には思っていなかったはずだ。なぜならいつも加奈子は太陽、真理子は月だったから。女同士の友情というのは微妙なものだといつも思っていた。
だから、一也のことも詳しくは話さず、ましてや健次郎とのあの夜のことは口にせず、ただ、実家のほうも落ち着いたので東京に戻るとだけ伝えて帰ってきたのだった。健次郎の連絡先を知っているのは自分だけだと少し優越感を持ちながら。

東京に戻り、久し振りに部屋に足を踏み入れた時、見慣れた景色のはずなのに、そこにはただ広くて冷たい空間が広がっているような気がした。部屋にいると、一人になった寂しさと悲しさと、そして会いたくても会えない健次郎に対する切なさで胸が締め付けられるようだった。
そして、あの週刊誌の写真が何度も目の前に現れては消えてゆく。「カズ君」という猫を抱くあの女性の顔が、一也の工具箱の中の女性と似ているような気がしてならなかった。

いっそ思い切って娘の美樹の家の近所に小さなマンションを借りようか、それとも実家の両親のそばに戻ろうか、と迷いながら半月がたってしまった。
片付け上手な美樹が孫を連れてきては、真理子が孫の面倒を見ている間に一也の部屋を掃除してくれている。父親っ子だった美樹は、悲しさをこらえながらも、一也の遺品を整理してくれている。「まだ亡くなって半年もたたないのに、片付けなくてもいいんじゃない?」と言われても、とにかく今は目の前から思い出を締め出してしまいたかった真理子は、「この部屋は一人では広すぎて、悲しさが募るから、すぐにでもあなたのそばに小さなマンションを借りて引っ越したい」と言い張った。でも、本当は、またあの写真が出てきて、目の当たりにその女性の顔を見てしまうのが怖かったからだった。

そんな中、昨日、加奈子から久しぶりに連絡があった。
「どうしてる?久し振りの東京はどんな感じ?」
「ところで、町田さんのフェイスブック見つけたよ。早速書き込みしてみた」
やはり加奈子は諦めてはいない様子で、ますます気持ちが盛り上がってきているようだった。
「返事はあった?」
とさりげなく聞いてみたが、音沙汰はないとのこと。心の底からほっとした。
「きっと忙しい人やし、そのうちまた連絡くるのと違うかな」と答えておいた。

今朝、目を覚ました時、どうしても健次郎の声が聞きたい衝動が抑えられなくなり、思い切って名刺を取り出した。
勇気を振り絞って一桁ずつ確認するように番号を押してみると、懐かしいあの声が聞こえてきた。
もう想いを抑えるのは無理…。堤防が決壊するように熱い想いが急激に溢れ出した。
五時の約束の時間が待ち遠しく、いつもより念入りに用意をした。でも、決して派手になりすぎないように心掛けて。
ニューグランドに着いてからの時間はまるで夢のようだった。十代に戻ったような感覚に陥った。初めて恋をしたあの頃のように。

窓の外がしらじらと明けてきた。夏の朝は早い。まだ少し一緒に眠りたい。そう思ってそっとベッドから抜け出し、カーテンを閉じた。
ベッドに戻ると、いきなり健次郎のたくましい腕が真理子を抱きよせた。

そして二人はまた幸せの奈落の底に落ちていくのだった。

(2020.05)