ボサノバシンガー 田坂香良子 -KAYOKO TASAKA-

コラム

港と都の物語 第11話

自分の腕の中に真理子がいる。夜通し何度も愛して、何度も果てた真理子が。
柔らかい髪の毛を指で掻きあげて、真理子の白く細いうなじをあらわにしてみる。それは、カーテンの隙間から差し込む陽の光に照らされて、妖しく淫らにも輝いた。
健次郎はそのうなじに唇を這わせた。
「このうなじがずっと忘れられなかった。曼殊院で出会った時からずっと」
「くすぐったい…」
「あぁ真理子、真理子はすべて僕のものだ。ここも、ここも…ここもだ」
真理子はからだの隅々まで健次郎の手と唇によって愛された。
喜びで身悶えしながら、このまま死んでもいい、とさえ思うのだった。

 健次郎は真理子に部屋の合鍵を渡した。
「しばらく東京にいるでしょ。いてほしい」
「…」
「もうどこへも行かないで」
「行きません。安心して。約束します」
真理子は健次郎の目の前に小指をだして、彼のそれに絡ませ、指切りげんまんを唄った。
 
 それから真理子は健次郎の部屋に度々訪れるようになった。
男やもめの殺風景な部屋が、真理子の手によって少しずつ華やいでいった。
缶ビールしか入っていなかった冷蔵庫も、真理子の作り置きの料理や食材でいっぱいになった。
日が経つにつれ、真理子の亡き夫一也への憎しみも少しずつ消え、猫のことも、一也の不倫相手が貴子だったかもしれない、ということも、どうでもよいと思うようになっていた。
 二人は港の見える部屋で愛し合い、長い間忘れていた幸せな食卓を囲み、心が満ち足りていた。
先のことはわからない、けれど、二人で過ごせる日が一日でも長く続くことを願った。

 ある日、健次郎は赤坂で講演会を行っていた。都市銀行の百人ほど入る会議室でのセミナーである。健次郎の後援会はいつも満員だ。事前申し込みが数日で締め切られてしまうほどだ。
健次郎は、用意してきた原稿はそれとして、参加者がどういった顔ぶれなのかを見渡してみる。
性別はもちろん、年齢や身なりなど、そこから原稿を少し変更したりアレンジしたりする。
その日も最初の挨拶の折に会場内を見渡してみる。百人程なので一人一人の顔がよく見える。
やがてすぐにその中に見覚えのある顔を見つけた。
その顔は、健次郎と目が合うと、にっこり笑って手まで振って来た。
祇園祭で真理子と一緒にいた加奈子だ。軽く会釈をして、他に視線を移した。
「なぜ、彼女がここにいる…」心の中でもやもやとした思いが渦巻いた。健次郎は加奈子が苦手だった。初対面のときから人の心の中に土足でずかずかと入ってくるような厚かましさと攻撃性は、
彼のもっとも苦手とする人種だ。何故、あの真理子が彼女と友達なのかも不可思議であった。
それにしても、ここにいるということは、わざわざ申し込んで来たのか、京都からこの為に来たのか、それとも東京に用事があってのことか…そんなことを咄嗟に考えてみもしたが、どうでもよいことだ、といつものように講演に戻るのだった。
 
 講演が終了して、健次郎は控室に戻った。
ドアがノックされ、銀行の担当者が入って来た。
「町田先生、お友達という方がおいでになっていらっしゃいますが」
「友達?」健次郎は嫌な予感がした。
「前田加奈子さん、とおっしゃる方です。お通ししてもよろしいですか?」
「どうぞ」、嫌だ、とも言えなかった。 
 すぐに加奈子が入って来た。
派手な花柄のワンピースに、転びそうな高いヒールを履いて、シャネルのバッグを肩からかけている。香水の匂いがきつすぎて、控室の中がすぐに息苦しくなってきた。
「町田先生、お会いしたかったです〜!。 京都ではどうも!先生のフェイスブックに書き込みしたんですけど、先生全然お返事くれなくて」
「すみません、このところフェイスブックはやっていなくて、気づかずそれは失礼しました。
今日は東京に何かご用事でも?」
「いいえ〜! ネット検索してたら先生の講演会が赤坂である、って知ったんで来ました」
「わざわざこの講演会の為にですか?」
「そうです〜。申し込んで、新幹線で今日来ました。今夜は赤プリに泊まろうと思って」
嫌な予感が当たった、と健次郎は思った。いまどき、『赤プリ』という言い方までもが下品に聴こえた。
「先生、この後お時間あります?」
「え、ちょっと用事があって」
「何時に終わります? 私、適当に暇潰して待ってます」
「いや、何時に終わるかわからないな」
「真理子のことでちょっとお話したいことがあるんですけど」
適当にかわそうと思っていた健次郎だったが、『真理子のことで』という言葉が引っかかった。
「真理子さんがどうかしましたか」
「それはここじゃ話せません。長くなるし、ちょっとね」
加奈子は口元に薄ら笑いを浮かべ、健次郎を上目使いに見つめてくる。
真理子に何かあったのか。昨日会った時にはいつもの真理子だった。
楽しく食事をし、愛し合って、今朝娘の家に戻って行った。

しかし、簡単に追い返されそうもない加奈子の勢いに負けてしまう健次郎だった。
結局プリンスホテルのダイニングバーで夕食を共にすることになってしまった。
目の前にいる加奈子は、更に派手な化粧を施し、講演会に訪れた時に着ていた服からスパンコールのドレスに着替え、まるでこれから同伴出勤するホステスのようだった。
「いやぁ、やっぱり東京の夜景は綺麗やなぁ〜」
そう言いながら、シャンパングラスの中で立ち上り躍る泡を照明にかざしながら言った。
「知ってる?先生。東京の人口って、このシャンパングラス一杯の泡の数と大体同じなんですって」
「そうなんですか。前田さんは物知りなんですね」
「前田さん、なんて他人行儀な言い方、“かなこ ”って呼んでくださいな」
「いえ、そんなわけには」
「あら、だって真理子のことは“まりこ ”って呼んでるんでしょ?」
「…」
健次郎の背中に汗が一筋す〜っと流れた。
あえて動揺を抑え、加奈子の言葉が聴こえなかったように健次郎は続けた。
「それで真理子さんのこととは何でしょうか」
「まぁまぁそう慌てない慌てない。先生、『真理子のことで』、とでも言わなけりゃ、会ってくれないでしょ」
「いや、そんなことは…」 

 それから加奈子は自分の過去を自慢げに、時には儚げに、ドラマのヒロインにでもなったかのように語りだした。なかなか肝心の真理子のことは話さない。饒舌になるにつれ酒のペースも早くなる。健次郎は、時間の無駄だと思った。
「それで真理子さんのことは」
「真理子真理子って、うるさいっ!」
加奈子がいきなり大きな声で叫んだので、まわりのテーブル席の客が振り向いた。
「前田さん、少し声のトーンを抑えて」
泣きだした子供を諭すように言う。
「前田さんじゃないっ! か、な、こ!」
加奈子の目がすわっている。
「わかりました、加奈子さん。少しお酒が過ぎたかな。帰りましょう」
「あらぁ、真理子のこと聴かなくてもいいのぉ?」
「はいはい、もういいですから」
 健次郎はテーブルで会計を済ませ、加奈子を椅子から立ち上がらせる。
レストランのエントランスを出、「じゃあ、ここで」と言って別れようとすると、加奈子がその場にへなへなと座り込んだ。見送りのレストランのウェイターが「お客様、大丈夫ですか?」と言って駆け寄ってきた。「大丈夫です」と言って加奈子を抱えてエレベーターに乗せることにした。 

「加奈子さん、何階のお部屋ですか?」
「う〜ん、これ」
加奈子はシャネルのバックから『805』と印字されているルームキーを出して健次郎の目の前に出してぶらぶらと振ってみせた。
健次郎は、エレベーターに乗り込み、八階のボタンを押して自分だけ外に出ようとしたが、またもや加奈子が座り込んでしまった。
「仕方ないな…」
八階について部屋を探し、キーでドアを開ける。
「加奈子さん、着きましたよ。もうここまで来たら大丈夫ですね。じゃおやすみなさい」
そう言った途端、加奈子が抱き着いてきた。驚いた健次郎の後ろでドアが閉まった。 

「先生、あたし、京都で先生に会ってから先生のこと忘れられなくて。好きになっちゃったの」
そう言って、唇を強く押し当ててきた。そして耳元で「抱いて」と言った。
健次郎は加奈子を強く突き離した。加奈子が勢いよく床に尻もちをつくかたちで転んだ。
その瞬間に足をくじいたらしい。
「いったぁ〜い!」
と加奈子は顔を歪めて足首を抑えた。
鬼のような形相で健次郎を睨み返してきて、吐き捨てるように言った。
「先生、きっと後悔するわよ。いいの?」
「勝手にすればいい」
健次郎は部屋を出た。

 加奈子が会いに来たことを真理子には黙っていた。真理子と連絡を取っていることが、はっきりと加奈子にわかることも避けたかったし、何より真理子に要らぬ心配をかけたくなかったから。
それからも真理子とは変わらず逢瀬を重ね、何事もなく数日が過ぎていった。

 ある晩、健次郎の部屋のファックスの受信音が鳴った。
血の気が引くとはこのことか、健次郎の顔がみるみる青ざめ、心臓が大きく音を立てて鳴りだした。
送られてきたファックスには、抱き合いキスをする健次郎と浴衣姿の女、真理子の写真が大きく載っていた。祇園祭で真理子を自宅まで送り届けた時のものだ。真理子の目元には黒いモザイクがかけてある。二枚目は、横浜のマンションに出入りする真理子の姿。
『経済評論家、京美人との不倫愛!』という見出しで、内容は、真面目一辺倒で通っている健次郎が、京都で未亡人をナンパし、そのまま横浜の事務所に通わせていること、京美人は未亡人だが、健次郎には妻がいること、その妻は大谷家具社長…等々、面白おかしく書きたててあった。
通信ページには、明日の週刊文潮に掲載される旨、ご了承ください、という文面が、文潮社から正式に掲載されていた。

 すぐさま、真理子に連絡した。
真理子は、言葉を失っていた。
「多分、加奈子さんだと思います」
加奈子が東京に来たこと、誘惑してきたこと、拒否したことで攻撃に廻ってきたことなどをかいつまんで説明した。
「真理子は何も心配しなくても大丈夫だからね。ただ、ここには記者が張り付いてるかもしれないから、しばらく会わないようにした方がいいかもしれない。でも毎日連絡はするから」
「ごめんなさい。あなたに迷惑かけることになってしまって。私どうしたら…」
「だから真理子は心配しないで」
携帯の向こうで真理子のすすり泣く声が聴こえてくる。
「真理子、愛してるから。ずっと愛してるから」
電話を切ってから、窓を開けてベランダに出た。相変わらず港の夜景は綺麗だ。
恋の罠は刹那へと自分を誘うのか…健次郎は海の遠くに浮かぶ船の灯りに目を凝らした。

 十数年ぶりに妻貴子から電話を貰った。内容はわかっていた。
「久しぶりだな、元気か」
「あなた、なんて恥ずかしいことしてくれたのよ!自分の立場わかってるの?いい歳してみっともないったらありゃしない。パパとママが生きてたら、泡吹いて卒倒してたわよ。私の会社だって影響受けるのありありじゃないよ。何よ、京都まで行ってナンパなんかして。こんな破廉恥な男だったら、さっさと別れておくんだったわ」
貴子の怒りは手の付けようがなかった。無理もないかもしれないが、それでも、そこまで罵倒される筋合いでもない、と健次郎は遂に言ってしまう。
「ところで、福島一也、って知ってるか」
「…」
電話の向こうの貴子が急に黙りこんだ。
「あの猫の元飼い主も、その福島一也、っていうのかな。カズ君、だっけ、猫の名前」
貴子からの返答は何もない。その沈黙が全てを物語っていると健次郎は思った。
「まぁ、いいや。この機会に一度話し合おう。そうしなければいけない、とずっと思っていたんだ、南青山の家を出た時から。何れにしても軽率な行動をしたことは申し訳ないと思っている。
済まない。君の言うとおり、いい歳して、本当に恋をしてしまったよ」
そう言って貴子との通話を切った。

 こんなに広い世界なのに、こんなに隅っこの小さな輪の中で、どうして人は出逢ってしまうのだろう、その中でどうして人は愛して、そして傷つけあってしまうのだろう。
『俺を試しているのかい、神様とやらは…』健次郎はそう呟いた。

(2020.05)