ボサノバシンガー 田坂香良子 -KAYOKO TASAKA-

コラム

港と都の物語  第12話

 真理子は最近移り住んだ小さなマンションの部屋で食後のコーヒーを飲みながら、ひとり、あの夏の日からのことを思い返していた。季節は移ろい、目の前に広がる芦花公園の木々はそろそろ色づき始めていた。
 あれから、自分でも信じられないくらい加速度的に、心も体も健次郎のものになっていった。夫の一也を亡くしてまだ喪も明けていないというのに、なんと不謹慎なことと思いながらも、これが運命ならしかたない、と自分に言い訳していた。
 曼殊院に行かなければ会うこともなかった人かもしれない。でも、もし、これが本当に運命なら、どこかで必ず出会っていたはずだろう。
 「人生は自分で変えられても、運命は変えられない」とだれかが言っていた。
 その言葉には『運命というものは人知を超えた何か大きな力に導かれているもの』という意味があるのだと真理子は思っていた。だから健次郎と出会ったのは運命なのだと。

 ちょうどその時、携帯が鳴った。いつもと違う健次郎の声に、何か嫌な予感がしたが、その予感は的中した。何ということなのだろう。やはり罰が当たったのか…。
あまりの出来事に力が抜け、へなへなと床にうずくまってしまった。
 「加奈子…」
 加奈子と話し合わねば、真理子は携帯を手にするが、今更加奈子と話し合ったところで、何も解決はしない。
『あの人のこと好きになったかも』
『奥さんから奪い取るつもり?』
『ふふふ…、どうしようかな』
京都の喫茶店でのあの会話を思いだし、あの時既に加奈子は、真理子と健次郎との仲を確信していたのだ、と思うと、妻から奪い取るのでなく、真理子から奪い取る宣戦布告だったのだと今更になって加奈子の怖さにからだが震えてきた。祇園祭の帰り道、真理子と健次郎が二人になった後を、加奈子はつけ、そして二人が抱き合う場面を撮影し、それを週刊誌に持ち込んだのだろう。
加奈子と新たに連絡を取る勇気も気力も、真理子にはなくなっていた。

 眠れない夜を過ごした真理子は、朝早く、娘の美樹からの電話で我に返った。
 「ママ、あれって、ママだよね?信じられないっ!」

 どうやら、朝から情報番組で健次郎のことが取りざたされ、大騒ぎになっているらしい。美樹はそれだけ言って、電話を切ってしまった。自分はなんということをしてしまったのだろう。健次郎だけでなく、愛する家族まで傷つけてしまった。そうなるであろうことにも気づかず突き進んでしまったことを初めて後悔した。
 「運命だから、しかたない。この運命に身をゆだねよう」
つい昨日まで、そんな自分勝手な甘えや言い訳をしていた自分のバカさ加減が情けなかった。
愛する人たちを傷つけてしまった。自分の我儘のせいで。
真理子は、茫然と、ただ茫然と座り込んだまま動けなかった。

それからどれだけ時間がたったのだろう。真理子には時間の感覚さえなくなっていたが、また携帯が鳴った。今度は電話ではなく、美樹からの長文のラインが届いた。

「ママへ」
「今朝、テレビに映し出されたママの顔らしきものに本当に驚いてしまいました。どうみてもママだよね。唖然とするとはこのことだと初めて知りました。しばらくはショックで何も手につかなかった。自分の気持を整理するのにはまだしばらく時間がかかりそうだけれど、今は、少し落ち着きました。そして、ママに伝えたいことがあります。
実は、パパの部屋を整理していたとき、写真をたくさん見つけてしまいました。そこにはパパがうれしそうに猫を抱えながら私の知らない女性と二人で写っていました。それだけじゃなく、いろんな季節、ヨットやゴルフ場、海外のリゾートで、同じ女性と写っている写真がいっぱいありました。その時のショックは、今のショックと同じくらい、いや、それ以上だったけれど、とにかくママにだけは知られてはいけないと、全部ゴミと一緒に処分しました。そのことは私の胸に秘めて絶対にだれにも言うまいと思っていたのだけれど。もしかして、他にも写真があって、ママはそれをみつけてしまったのではないですか?だからあんなに急に京都に帰り、あんなに急にパパの部屋を私に任せて整理したのではないでしょうか。私には事の真相はわかりませんが、その女性は今日テレビでみた、あの男性の奥様によく似ていました。ママがあの男性とどういう経緯で出会い、その後どうしてそうなったのかは、私には知る由もないし、今は知りたくもないけれど、もしあの女性がそうであれば、運命というものは本当に皮肉なものなのですね。
私を心の底から愛しんで育ててくれた二人を、こんな形で自分のこころの中にとどめておくのは本当に辛いことです。でも、いつか私が歳を重ねたら、もしかしたら少しはママの気持がわかるのかもしれません。それまでは、会いたくありません。
今、私のマンションの近くにも、張り込みの人たちがいるようです。きっとママのマンションの近くにもいるはずです。これ以上、私を傷つけないで。お願いだから。
私の友達の紀美子、覚えてますか?彼女の別荘が軽井沢にあります。さっき電話をして、事情を話したら、その別荘をしばらく貸してくれると、こころよく承諾してくれました。鍵の場所、別荘の住所はあとでまた連絡します。とにかく、荷物を作って、そちらに避難してください。京都のおばあちゃまもきっと心配していることと思いますが、私のほうから連絡をしておくので、心配しないで。とにかく、ママの身を守ってください。」

途中から涙で字がよめなくなってしまったが、なんとか最後まで読み、美樹の心遣いに感謝し、そしてまたこれ以上彼女を傷つけないためにも、と決心し、荷物をまとめた。
もうあたりは夜の闇に包まれていた。

(2020.05)