港と都の物語 最終話
あの日から突然、真理子の携帯がつながらなくなった。
何度かけても『おかけになった番号はお客様のご都合によりおつなぎできません』というアナウンスが流れるだけだった。
真理子の身辺も大変に違いない。あの繊細な真理子がひとりで耐えているのか…今すぐそばに飛んで行って抱きしめてやりたい衝動に駆られていたが、健次郎を周囲の環境が許さなかった。
ワイドショーのコメンテーター、雑誌の連載、講演会、大学の講義、その全てを失い、というより、自ら責任をとって辞退したのだ。それでなければいつまでもマスコミは追いかけてくるし、週刊誌は第二、第三の矢を放ってくるだろう。ただただ真理子を守りたい一心だった。
そしてある日、真理子から手紙が来た。
手漉き和紙の便箋に、美しい文字が並んでいた。まるで真理子を見るように。
健次郎様
お元気ですか。私は今あなたの知らないところで暮らしています。
今回のことで、沢山の人を傷つけてしまいました。
でも、あなたと出逢ったことは後悔していません。
こんな歳になって、こんなに幸せな世界が待っていたなんて、
最後に神様がプレゼントをくれたのだと思います。
けれど、やはりあなたとこの先も幸せの世界を続けてはいけないと決めました。
これが私にできる贖罪です。
どうか、お元気で。ありがとうございました。
あなたを、本当に、本当に愛していました。
真理子
キッチンの壁に掛けてある真理子のエプロンに目をやり、健次郎は泣いた。
洗面所に置かれた二本の歯ブラシ、化粧品、赤いスリッパ…真理子の置き土産は恋の爪痕か、
真理子のいなくなった部屋は、やけに広い感じがした。
妻貴子の代理弁護士から連絡があり、離婚が正式に成立したことを知らせてきた。
『福島一也』の名前を出した途端、一気に黙り込みを決めた貴子とは、不思議なほど争うこともなく、すんなりと離婚の作業が進んで行った。法律に則った財産分与で、一也の手元にも多少のものが残った。残りの人生、のんびりと晴耕雨読の生活をおくろうと思う健次郎だった。
ひとつ安心したことは、妻貴子に世間の同情が集まり、家具店の売上が増えたことだ。
妻貴子へのせめてもの家族愛を最後に示せたことで、自分も前に進める気がした。
真理子がいなくなってから初めて迎える夏。
横浜の港は今日も変わらず碧い。真理子と一緒にこの景色を何度見たことだろう。朝陽と夕陽と、
きらきら輝く夜景に、「京都には海がないから」と言って、子供のように喜んでいた。
真理子がいなくなった横浜、あれほど好きだった横浜、健次郎にはその場所が、窓に拡がる夢のような景色を見ることが、次第に辛くなっていた。
しばらくぶりに相馬一樹から連絡が入った。
相変わらず元気で威勢の良い声だ。
「よぉ〜色男!久しぶりだな。どうだ、元気にやってるか」
「お察しの通りだよ」
「京美人はどうした」
「別れたよ」
「そうか…」
相馬の声が少しだけ小さくなり、それ以上言わないことに、彼の優しさを感じた。
「ところでお前、今仕事は何もやってないんだろ」
「あぁ、あの騒動で全てパーだ」
「毎日何してんだよ。暇だろ」
「本読んだり音楽聴いたり散歩したり、気ままな隠居生活だよ」
「もったいないなぁ。お前ほどの奴が」
本当は健次郎の強がりだった。社会から必要とされなくなる生活が、こんなに刺激のないものだとは、このまま老いてただ死んでいくだけなのか、それが正直な思いだった。
だから、横浜港の景色も、以前と同じような気持ちで眺められなくなっていたのかもしれない。
「ところでお前フランス語得意だったよな」
相馬が突然尋ねてきた。
「第二外国語でとってただけだよ」
「いや、でも試験前にはみんなお前のノート取り合ってたよ。『R』の発音みんなうまく出来ないのに、お前だけ鼻からフンガフンガ鳴らして、ペラペラ喋ってたもんな」
「で、フランス語がどうかしたのか」
「向こうのシンクタンクの副所長の席が空いて、お前に来てほしいって」
考えてみれば、健次郎の運命は、この相馬が用意してきたような気がする。
真理子に出会ったのは、相馬のお蔭なのだ。同窓会、講演会と京都に行かなければ、真理子に出会うことはなかった。相馬には恨みなどひとつもなく、むしろ感謝している。
「フランスのどこだ」
「パリだよ」
「まさか、トマ・ゴマールんとこか!」
「さすが町田、勘がいいな」
トマ・ゴマールとは、フランス国際関係研究所の所長で、日本にもG7で何度か来ている、世界的に有名な経済学者だ。
「ま、お前にも都合があるだろうから、少し考えてくれ。当分行ったきりになると思うし」
「いや、行くよ!いつでもOKだ。是非行かせてくれ。パリで死ぬ覚悟だ」
相馬はまた自分を救ってくれた。持つべきものは真に友だ。
これも全て運命なのだろうと健次郎は考えた。
四条通りから室町通にはいり、確かこの辺り…「あった!ここだ!」
健次郎は目的の建物を見つけ、思わず声を挙げた。呉服屋の跡地に建てたマンションだと言っていた。今、目の前に真理子の実家があった。通常、大家は最上階に住むものだ。探偵のような気分になって、入り口玄関に入り、オートロックの最上階の部屋番号を押した。
「はい」という年老いた女性の声がした。真理子の母だろうか。
「失礼ですが、そちら様は福島真理子さんのお母様でいらっしゃいますか」
「違いますけど」
この部屋ではなかったか…健次郎は落胆したが、ひるむことなく続けた。
「あの、こちらのマンションをお建てになったオーナーのご老人、いえご婦人がお住まいだと思うのですが、どちらのお部屋かおわかりになりますか?」
インターホンの向こうの声が少しいぶかしげに聴いてきた。
「どちら様ですか?」
「え、あの、弁護士の者なのですが、相続のことやらで伺うお約束で。
それが部屋番号を失念していまいまして」
よくもこうぺらぺらと嘘を並べ立てられるものだと自分でも感心した。
弁護士ということで相手も少し安心したようで、
「それなら管理人さんに聞くといいですよ。
通いですけど、この時間やったら、まだおられると思います」
「ありがとうございました」
健次郎は早速、管理人室を呼び出した。
最上階の住人に言ったことと同じようなことを並べたてて、自動ドアが開いた。
七十歳くらいだろうか、人の良さそうな男性が管理人室から出て来てくれた。
「こちらのオーナーさんは、東京の不動産屋さんですけど。
相続、って、半年くらい前に亡くなった西村さんのことですか?」
「亡くなったんですか?」
「入院していたご主人が亡くなられて、そのすぐ後追うように亡くならはったんですわ」
「後追う、ってまさか自死とか…」
「いえいえ、心臓発作だって聞いてます、娘さんから」
健次郎は、あの騒動のショックで亡くなったのではないかと自責の念にかられた。
「その娘さんは今はこのマンションには住んでいらっしゃらないのですか?」
「オーナーチェンジしゃはったんで、ここには住んだはりませんわ」
「あの、その娘さんの連絡先わかりますか?」
「わかりますけど…。でも、個人情報ですしね…」
管理人は鼻先までずり落ちている眼鏡越しに健次郎の顔を覗きこんだ。
「あの、失礼ですが、これ」
聞き込みの刑事にでもなったかのように、財布から一万円札を取り出し、管理人の手に握らせた。
「こんなことされたら困りますわぁ」
「いえ、どうしても手続上お話しなくてはならないことがあって」
「う〜ん、まぁ弁護士さんやしねぇ〜。ちょっと待ってください」
管理人は結局一万円札をポケットにしまい、管理人室から一冊のファイルを持って来た。
「えぇと、えぇと、あ〜これや。前オーナー連絡先、娘さんになってます。福島真理子さん」
健次郎の心臓の音が高鳴った。京都まで来た甲斐があった。
「メモしまひょか」
「お願いします」
管理人は真理子の連絡先を書いて健次郎に手渡した。
「本来はこういうことはせぇへんことになってるんですけど」
「わかってます。本当にありがとうございました」
深々と頭を下げて、マンションを去った。管理人のくれたメモを見る。
「軽井沢にいるのか…真理子」
その足で軽井沢駅に降り立った健次郎は、タクシーに飛び乗り、行先を告げた。
「あぁ、雲場池のすぐそばですね」
学生の頃、金持ちの同級生の別荘に遊びに行ったことがある。確か雲場池のそばだった。
水面にのどかにたたずむカルガモの姿を思い出す。
「お客さん、東京からですか」
「えぇ、まぁ」
京都からというのも面倒だった。
「観光で?」
「いえ、ちょっと知り合いの家に呼ばれて」
「この季節は旧軽銀座なんてまっすぐ歩けないくらい混んでますけど、雲場池の辺りは、いつも静かでいいですよ」
「そうなんですか」
世間話をしているうちに、タクシーが止まった。
「その住所だと多分この辺りですね。あの辺じゃないですか?」
運転手はニ、三件、固まって建っている別荘らしき建物を指さした。
「ありがとうございました」
パリに行く前に、もう一度だけ真理子に会っておきたいと思った。
もう一生会えないかもしれないのだから。
雲場池の水面に映る木々と、やはり今ものどかにたたずむカルガモ、ゆっくりと時間の流れる空間に住処を見つけたのは、真理子らしいと思った。
「この家だな」丸太づくりの和風平屋の家は、モミの木やハナミズキの木に囲まれて建っていた。
外はだんだんと陽が落ち、夕暮れていく。その時、その家に灯りがともった。
「真理子がいる」
健次郎はドアベルを思いきり鳴らした。
「はい?どちらさまですか?」
ドアの向こうから聴き覚えのある真理子の声が響いた。忘れるはずがないあの声を。
「健次郎です」
少しの沈黙があり、ドアが開いた。
「どうして…、どうしてここが」
「真理子、探したよ。やっと見つけた。会いたかった」
思わずその場で真理子を抱き寄せ、きつく抱きしめる。
浴衣を着た真理子の首筋から石鹸の香りが漂ってきた。
「待って、健次郎さん。庭仕事して汗かいて、シャワー浴びたばかりでお化粧もしてない」
「そんなのいいよ。真理子の素顔は嫌、ってほど見てきた」
「とにかく、あがって。こんな所じゃなんだから」
真理子に促され、リビングに通された。
「お茶入れるから」
室内から庭の木々を見ると、自然の森の中に暮らしているような雰囲気だ。
「いい家だね」
「娘の友達の別荘なの。東京にも京都にもいられなくなって。
でも、いつまでも甘えててもいけないから、どこかちゃんと住むところを探そうと思って」
お薄を立てて健次郎に勧める。真理子らしいもてなしだ。
「ずっと心配していた。ちょっと痩せたかな」
「そうかしら」
相変わらず美しい女のままだった。湯上りのほつれ毛が首筋にまとわりついていた。
マンションの管理人から聴いた経緯を黙って聴く真理子。
「ご両親には申し訳ないことをしてしまった。僕の所為ではないかと」
「それは関係ありません。父は病気だったし、母も心臓の持病抱えてたから」
多くは語らない真理子だった。恨み言も一切言わない。
しかし、押し絞るように言った。
「せっかく忘れようと思ってたのに。どうして来たの」
「ごめん。僕もそのつもりだった。手紙読んで。真理子の決めたこと、僕も尊重したいと思った」
「だったらどうして」
真理子の目が困ったように健次郎を見つめる。
「実は来月パリに行くことになったんだ」
「えっ!」
真理子は目を大きく見開いた。
「お仕事ですか?」
「うん。シンクタンク…経済研究所みたいなところ、そこの副所長として行く」
「そうですか…。それはおめでとうございます。お仕事無くなってしまったこと、わかっていたので、安心しました。よかったですね。どれくらい行ってらっしゃるの?」
「多分、日本にはもう戻らないつもりだ」
「…」
大きくため息をついて黙り込む真里子。
「だから、もう一度会いたくて来た。もう一生会えないのかと思うと、いてもたってもいられなくて、京都に行って軽井沢まで来たんだ」
「…」
「真理子、一緒にパリに行かないか。パリなら、もう誰の目も気にすることはない」
そう言って、カバンから印刷されたEチケットを出した。
「真理子の航空券の控えだ。チェックインしたら指定ラウンジで待ち合わせよう。来てくれるまでずっと待ってるから」
真理子は押し黙ったままだ。
「真理子、なんとか言ってくれ。行こう、パリへ、一緒に」
「ごめんなさい。行きません」
涙を浮かべ、頭を下げて言う。
「どうして?こんな言い方をしたら失礼だけれど、もうご両親の心配をする必要もないし。
お嬢さんは立派にご家庭を持っているのだし。もう何のハードルもないだろう」
「…行きたいけど、本当は行きたいけど、でも行けない! 私は沢山の人を傷つけて、こんな私が幸せになってはいけないの」
「もういいじゃないか。二人とも充分罰は受けたよ。あぁ、そうだ。僕は妻とは正式に離婚した」
健次郎のその言葉に、真理子のからだがビクッと動いたように見えた。
「でも、やっぱりだめです」
「僕のこと嫌いになったの?」
「そんなことはありません」大きく首を左右に振る。
「お願い。これ以上私を苦しめないで」
真理子から、苦しめないでと言われ、健次郎もそれ以上言葉を続けることを躊躇した。
「わかった。真理子を苦しめることだけはしたくない。でも、これは置いていく。
もし気が変わったら来てほしい。待ってるから」
そう言って、健次郎はチケットのコピーを置いた。
「これ以上いると、真理子が辛そうだから帰るね。会えてよかったよ」
健次郎が立ち上がった途端、真理子の手が彼の腕を掴んだ。
「待って! 最後にもう一度だけ抱いて」
帯をほどき、浴衣を脱がせると、真理子の白く豊かで形のいい乳房があらわになった。
優しく、そして激しく口づけをし、抱き合い、真理子のからだを隅々まで愛する健次郎だった。
真理子もまたその健次郎に応えるように、強く自分のからだを押し付けてくるのだった。
「愛してる…愛してる…」真理子は泣きながら何度も言った。
羽田空港第三ターミナル。
健次郎はチェックインを済ませ、エールフランスのビジネスクラスラウンジで各便の搭乗案内開始アナウンスを聴いていた。傍らに真理子はいない。
京都のマンション管理人から教えてもらった真理子の新しい携帯番号にかけてみたが、またもや
『おかけになった番号はお客様のご都合によりおつなぎできません』というアナウンスが流れるばかりだ。また番号を変えられてしまったか…。真理子の覚悟を感じる健次郎だった。
いよいよ予定便の搭乗案内開始のアナウンスが流れだした。わかってはいたが、心のどこかで期待していた自分もおり、その思いを振り切るように、搭乗口へ向かう為に立ち上がった。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」ラウンジフロントの女性に言われる。
搭乗口ではビジネスクラスから優先案内をされ、指定の席に座った。
隣りの席には誰もいない。
飛行機の中から窓の外を眺めて心の中で呟いてみる。
「さよなら日本、さよなら真理子…」
客室乗務員が、ウェルカムシャンパンと新聞を持って来た。
新聞に目を通しながら、シャンパンを口にふくむ。
「遅くなりました」
声のする方に目を向けた。
「娘が行って来い、って。いい?一緒に行っても」
「もちろん」
飛行機は滑走路を滑って、パリへと飛んで行く、二人を乗せて。
(2020.05)